仁聞菩薩は宇佐神宮奥の院のある御許山に於いて法蓮・華厳・躰能・覚満とともに70余年仏法を修行し霊山寺を開いたとされ、そして養老初年国東六郷の間を遊化し霊場28ケ所を開きその総名が六郷山です。仁聞はまた4人同行して千燈の五岩屋で五壇の秘法を修め千燈の枕岩屋で入寂したと云われています。
 六郷山に於いて仁聞菩薩の威霊・信仰は実在しているといえます。

仁聞菩薩についての文献

1,石清水八幡文書 仁平2年(1152)人聞菩薩記
八幡大菩薩の前身人聞菩薩は法蓮・久門・花金・大能・覚満とともに八十余年仏法を修行。

2,六郷山諸勤行注進目録 安貞2年(1228)
千燈の五岩屋にて人聞菩薩等5人の同行者が異国降伏の為五壇の秘法を修した。

3,八幡宇佐宮御託宣集 正和2年(1313)
八幡大菩薩は人聞菩薩として顕れ馬城峰(御許山)に於いて法蓮・華金・大能・覚満の4人の同行とともに七十余年仏法を修行し、正月13日、霊山寺(御許山)を開いた。人聞在世中に豊後国六郷山を開いた。豊前の人宇佐能行が惇和天皇の天長二年より文徳天皇の斎衡二年二月十五日まで三十一年間、六郷山に住し難行苦行したが未だ人聞の巡礼の次第が分からない依って津波戸石屋に於いて一心専念二十一日間行を修めたその二十一日未明頃、僧が現じて曰く、我は是れ人聞菩薩弥陀如来で六郷山を開いたものである、此山に修行するに二路あり、一は後山の石屋より横城に行くものなり、一は海路邊地に行くものなり但し東三郷、安岐、武蔵、津守(国東)、西三郷、伊美、来縄、田染は此山の敷地なり、宜しく此峰を護持して聖跡を巡行すべしと告げ消え失せた。

4,吉弘統幸の願分 天正15年正月20日 (1587)
屋山権現(長安寺六所権現)の霊場は元正天皇の御宇養老二年仁聞の開闢以来異国降伏の霊場である。


5、豊鐘善鳴禄 寛保二年
仁聞菩薩は元明天皇の養老二年の初め国東六郷の間を遊化し、霊場を開くこと二十八ケ寺。すべて名を六郷山という。